ショートプログラム 3



 幽助の家庭の事情というのは割と複雑である。
両親は幼い頃離婚して母子家庭、し かも母親がとんでもなく奔放で、どこで何をしているのかよくわからない。2、3日音信不通はいつものことで、以前は十日も留守にした挙句、帰って来るなり「北海道に行って来た」等と言って土産のホワイトチョコを差し出してきた事もあった。
故に、訪ねて来る客も結構バラエティに富んでいる。夏の暑い中黒服を着込んだ者、以前来た時よりも指の数が少ない者、特攻服に身を包む女達、etc...。中でもお気に入りの客は水商売の女達で、彼女達は母親が留守の間にもよくやって来て、御飯を作ってくれたり色んな話を聞かせてくれたりした。
 そんな環境が当たり前の十数年だった上に事故で死んだり霊界探偵にされたりして、訪問客は益々その種類を増やしていった。だから今更扉の向こうにどんな奴がいようがまったく動じなくなっているのは当然の事である。しかしこの日ばかりは少し事情が違っていて、幽助は目の前にいる彼に一瞬戸惑ってしまった。





 「……どうしたんですか?」
 その声に我に返った幽助は、別に、と返して客を部屋に通した。彼は玄関を上がると案内されるまでもなく幽助の部屋に落ち着いた。
 「何か用か? 蔵馬」
 「うん、ちょっと…」
 「?」
 「顔が見たくなって」
 「………」
 毎度おなじみの柔らかな笑顔に、幽助は益々違和感を覚えた。
 蔵馬は決して珍しい客ではない。妖怪といってもお互い人間界に住む者同士、会おうと思えばいつでも会えるし、実際何か特殊な事件が起こった時など大抵は彼の頭脳に頼っている。
 だが、それだけだった。
 飛影などと比べると遥かに顔を合わせているのだが、その割には個人的な交流というものはほとんどないのだ。あったとしても常に外であり、互いの家を行き来するといえば事件のある時、もしくは勉学に励まざるを得ない時と、事情は限られてくる。だから、そのどちらでもない、ただ単に訪ねて来るというのはこの日が初めてだった。
 とりあえず、と、幽助は冷蔵庫の中から茶の入ったペットボトルを取り出し、コップとセットで蔵馬の前に置いた。会社帰りだったのか、蔵馬はネクタイを緩めてから出された茶をコップに注いだ。
 「……………」
 お互い沈黙が続く。普段は邪魔にもなる母親に、今ほど帰って来て欲しいと願った事はない。彼女にかかれば例え相手が人間離れした妖怪でも、あっと言う間に飲めや歌えの宴会になだれ込む事であろう。しかしそんな都合のいい話などなく、沈黙は更に重くのしかかって来る。
 だが、そう感じているのは幽助だけのようで、当の蔵馬はというと部屋のあちこちを見渡してそれなりに満足しているようであった。
 もう一度、何か用かと聞こうとした時、
 「本当に格ゲーばかりですね」
 そう言って、蔵馬は籠の中に無造作に放り込まれたゲームソフトを物色し始めた。スーファミ、PS、SS…本体は見当たらないがネオジオ等も混ざっている。結構いろいろあるんですね、と独り言のように言う蔵馬に、俺が買った訳じゃない、と反論する。中には買った物(盗ってきたものも…)あるが、半分以上は浦飯家の常連客が土産だとかなんかで置いていった物だった。
 軽いやり取りを交わしながらそれらのソフトをあれこれいじっている蔵馬は妙に楽しげで、それが反って幽助の中の「?」を大きくさせていった。確かに彼の態度はいつもと同じである。少なくともそう見える。だけど本当にそうなんだろうか?
 それは違う、と頭の中で響く。大体、こうしてただ訪ねて来る、ということ自体一つの事件なのである。事件には真相が付き物だ。だが、それを突き止めるには相手があまりにも悪い。かつて魔界で名を馳せた盗賊、妖狐蔵馬。彼の恐ろしさは、何者をも欺き全てを思いのままに操る狡猾さ。そんな彼から真相を探り当てるというのは並大抵の事でなく、幽助にとってはもはや身の程知らずという次元の話である。それでも、例えどんなに無謀な事でも、やはりこの事件の真相は解き明かさねば気が済まない。
 だが、どうやって?
 ここで「何かあったのか?」と聞くのは簡単だ。しかし、下手にそんな事を口にしようものなら軽く受け流され、彼の警戒心を強めてしまう。そうなると事件は永遠に迷宮入りとなる。とにかく彼が警戒し始める前にそれとなく、それが訊問だと気付かれないように事を進めねばならない。果たしてそれが自分に可能だろうか?ただでさえその無鉄砲さはお墨付き、それは自分でもよく分かっている。そんな自分に本当に出来るのだろうか。
 「幽助?」
 その声に我に返ると、急に視界に蔵馬の顔があった。
 「おわっ」
 思わず後ずさる。とっくの昔になくしたはずの心臓が早鐘のように鳴っている気がする。もしもあったら本当に飛び出していたかもしれない。
 一呼吸おいて、ふと蔵馬の方を見た。何事かと怪訝そうにこちらを見ている。
 …ばれたか………?
 そう思ったがどうやらそうではなく、幽助の態度に不信感を抱いたものの一体何を考えていたのかまでには至らなかったらしい。とりあえずその場はどうにかやりすごし、ほっと胸をなでおろした。





 蔵馬に誘われるままに、幽助はPSの電源を入れる。なんて事はない、単に対戦しようという事だったのだ。蔵馬と格ゲーというのはどうも結びつかないが、そこそこ慣らしてはいるらしい。最も、コンシューマではシミュレーションが主で、格闘・シューティングの類はゲーセンで気が向いた時に、程度だと言う。それを聞いて益々イメージが作れず混乱しているとゲームのオープニングが流れ始めた。その間に説明書を取り出し、操作方法の説明をする。
 「…で、これが技の出し方。分かるよな?」
 「大体は…。ちょっとコントローラーに慣れるまで時間かかりそうだけど」
 そうは言ったが、うまくいかなかったのはせいぜい最初の3〜4回位で後は自由自在、こちらがハンデをもらわないとかなわない位だ。そこそこ慣らしている、というのは、伊達ではないらしい。使うキャラクターにそれほどこだわりはないらしく、何戦かすると次はこれ、と色々変えている。しかし、気のせいだろうか。無意識にも女性だけは避けている気がする。…結構気にしているらしい。
 「何?」
 しみじみと眺める視線に気付き、蔵馬は手を止めた。
 「いや、別に…」
 そうは言ってみたものの説得力はない。
 「幽……」
 「スキあり!」
 逆訊問されない内に、例え卑怯と呼ばれても構わない。咄嗟の必殺コンボで蔵馬の気を逸らす事には成功した。次の回であっと言う間にパーフェクトを取られたが、そんな事は今はどうでもよかった。
 「…普通しますか? そういうこと」
 「はっはっは、勝負の世界に卑怯もクソもねー!」
 軽口を叩きながら今度は悟られないよう、蔵馬の方を見る。外見の穏やかさと違いかなりの負けず嫌いである彼は、素直に対戦を楽しんでいるようだった。
 …本当にただ遊びに来ただけなのかな…
 そんな風にも思ったが、やはりどこか引っかかる。うまく説明出来ないが、何かしっくり来ない。未だに蔵馬と格ゲーというのは結びつきにくいが、それとは違う。今こうして対戦していても、真剣に画面を見詰める姿を目にしても、どうにもそれを素直に受け入れる事が出来ない。
 もう一度、最初から思い出してみる。蔵馬は言った。「顔が見たくなった」と。あとはただボーっとしたり、こうしてゲームをして遊んでいるだけ。
 どういうことだろう? 一連の行動には何か裏があるんだろうか? …いや、それはどうも考えにくい。自分の想像力が足りないせいなのかもしれないが、別の意図があるとは思えない。
 じゃあ、本当にただ顔が見たくなって、ただ遊びに来ただけなのか? …それも違う。違う気がする。確かに“裏がある”というのは何だか腑に落ちないが、だからといって意味がないという事ではない。彼がこうしてここへ来たのには何か意味があるはずだ。それは何だろう? ただ顔が見たくなった、彼にそう思わせたのは何だろう ―――。
 「あ」
 そうこう考えている内に又負け数が増えてしまった。仕方ない、もう一度、とキャラクターを選択する。
 「?」
 ゲームは始まらない。蔵馬がまだキャラクターを選択していないのだ。
 …もう飽きたかな?
 ふと蔵馬の方を見る。蔵馬は黙ったまま画面を見ている。その表情に、幽助は一瞬どきっとした。
 それは先程までの楽しそうなものではなく、何かこう思い詰めた様な、どことなく影のある、そういう表情だった。
 これは一体何だろう? 幽助はこういう蔵馬を見たことがなかった。だから、声をかけようにも何と言ったらいいのか分からなかった。
 しかしそれは本当に一瞬のことで、蔵馬はすぐにカーソルを動かしてキャラを選択する。今度は幽助がボーっとしていて、気付いた時には既に体力ゲージが赤くなっていた。直ぐ様反撃するが及ばず、また負け数が増える。
 「なんだかさっきからよそ見ばかりしていませんか?」
 さすがというか、当然というか、蔵馬は疑問の眼差しを幽助に向ける。幽助はというと、咄嗟に返す言葉が見付からず視線をそらすことしか出来なかった。
 …これじゃあ「怪しい」と体言してるじゃねえか…
 そうは思うものの、どう言えば蔵馬を納得させられるか分からない。いっその事こちらから切り出してみようか? 「何かあったんじゃないか?」と。そしたらどうなる? …それは火を見るよりも明らかだ。だけどこのままじゃあどうせ訊問にあって喋らざるを得なくなる。だったらやっぱり…
 意を決して幽助が蔵馬の方を向いた時、そこに彼はいなかった。慌てて見回すと、何故か他人の冷蔵庫を勝手に開けてその中身に肩を落としていた。
 「こらー!! てめ、人ん家で何やってんだ!!」
 「いえね、集中力がなくなったっていうのは脳に栄養がいかなくなった証拠ですから、何か補給出来ないかと思いまして」
 「………」
 どうやら蔵馬は、幽助がボーっとしている原因は腹が空いているからだと思ったらしい。幽助にとってはこの上ない幸運である。だが、どれどれ、と蔵馬の後ろから覗いてみた冷蔵庫は、確かに寂しいものだった。
 「普段はビール位あるのになあ…」
 「………」
 沈黙の後、ため息をついて蔵馬は「何か買って来る」と言った。が、幽助はそれを制し自分が出掛ける事にした。一度、蔵馬のそばから離れて整理してみたいと思ったのだ。それなら自分が外に出た方が時間の調節も出来ていい。幸い外はまだ薄暗い程度だ。これなら大抵のスーパーは閉店までまだ時間がある。
 「ラーメン以外作れるんですか?」
 皮肉っぽく言う蔵馬に、馬鹿にするな、と返す。実際、小学生の頃から「自分の事は自分で何とかしろ」と家事をやらされていたので、形はともかくちゃんと食べ物を作る事だけは出来るのだ。見るに見兼ねた雪村一家が色々と面倒を見てくれたので、本当に「ただ作れる」程度に終わっているのだが。
 すぐ帰るから、と幽助は財布を持って外に出た。少し涼しくなった風が心地好い。深呼吸をしてから階段を一段飛ばしに軽く駆け降りる。道路に出て、ふと、自分の部屋の窓を見上げた。外に出る時、蔵馬が自分を呼んだような気がしたが、空耳と決め付けて出てきた。窓から明かりが漏れているが、別段蔵馬の姿はなかった。
 幽助はさっきの蔵馬の表情を思い出した。一体あれはなんだったのだろう…。ああいう表情を何と呼のか、確か知っているのだが思い出せない。何だったろう…?
 考えても答えが出ないのは分かっているので、やめた。そして、これからどうすればいいのかを考えた。
 食事時に切り出してみようか、それとも何も聞かないのがいいのか…。もしも何か思い悩む事があるのなら心配だし、力になりたい。だけど、何も言わないというのは知られたくないということじゃないか…?
 結局、結論の出ぬまま馴染みのスーパーの前まで来てしまっていた。
 …とりあえず、様子を見るしかないか…
 以前、誰かに言われた事がある。
 『迷っている時ほど動かない事だ』
 あれは確か、初代霊界探偵である真田黒呼(現在の姓は佐藤)を訪ねた時、その夫の佐藤章悟が言った事だ。それが今あてはまるかどうかは分からないが、どんなに迷っても答えが出ないのだから仕方ない。焦れば逆に悟られてしまう。蔵馬から動くのを待つしかないのだ。自分はそのチャンスを見逃さないようにするしかない。
 そう結論付けた幽助は、買い物を済ませると真っ直ぐ帰路についた。その途中、道路の向こう側に見た事のある人たちがいたような気がして、信号待ちをしている車の隙間から様子を伺った。それはごく平凡な家族の風景。父親と母親と、その子供らしき少年と。
 「あれ……」
 父親と子供には覚えがなかったが、母親の方は見た事がある。
 「もしかして蔵馬の…?」
 そう思った時、車両側の信号が青に変わり、車が一斉に動き始めた。やっと車が途切れた時には既に三人の姿はなかった。





 時計は午後八時を回ったところだった。当然、外は暗い。蔵馬は幽助が夕食の支度をしている間、ボーっとテレビを眺めている。幽助は買って来た野菜を適当にざくざくと切り刻み、これまた適当に鍋に放り込む。
 「カレーだったら明日も食えるしな」
 材料を煮込んでいる間、幽助は手を休めてテレビの前に座った。蔵馬とは机ひとつ距離を置いて。一体何を見ているのかと思ったら、見た事もないドラマだった。サスペンスタッチの軽いラブコメディ。主役の女優は…
 「あれ? これって…瑠架じゃねーのか?」
魔界との間の結界が解かれてからというもの、妖怪たちは少しずつ人間界に紛れ込んでいる。そんな中でも「カルト」という三人娘は人気者だ。瑠架というのはその三人娘の一人である。他の二人−小兎と樹里に比べて大人の女性といった感じで、中年層にもファンは多い。
 「へー……いつの間に…」
 「先月からやっていますよ、これ」
 「俺、あんまこーいうの見ねえからなー……って、お前こういうの見るのか?」
 いくら顔見知りの妖怪が出ているからといって蔵馬がいわゆる「トレンディードラマ」なんてものを好んで見るものだろうか。
 「違いますよ。秀一が──義弟がね、ファンなんですよ。で、前に家に帰った時ビデオ見せられて」
 大人の魅力は前途ある少年をも虜にするらしい。
 義弟の話が出たところで、先ほど買い物の帰りに見た親子連れの事を思い出した。
 「そういえばさっき…」
 そう言いかけて、幽助は言葉に詰まった。
 …また…だ。
 出掛ける前、一瞬だけ見えたあの表情。何だか怒っているような、それでいて少し寂しそうな。
 蔵馬はただテレビ画面を見つめている。幽助の視線には気付いていない。野菜を刻んでいる間も時々蔵馬の方を覗いていたが、その時はこんな表情はしていなかった。なのに、突然である。
 何故だろう? 自分は何か、彼の気に障るような事を言っただろうか? 今話題に上ったのはドラマの主役である瑠架の事、そして彼の義弟が彼女のファンであるという事…。
 ── 弟?
 もしかしたら、義弟の事が原因だろうか? だけど最初の時はただゲームで対戦していただけだ。考えすぎだろうか。でも…。
 「なあ、蔵馬…」
 無意識に呼びかけていた。今度は蔵馬も気付いた。
 「ああ、ごめん。何?」
 「さっきさ…」
 「うん?」
 また、言いかけて言葉を失った。なんだか、言わない方がいいような気がしたのだ。だが、蔵馬は幽助の次の言葉を待っている。誤魔化す言葉も思い付かない。 「何かあったんですか?」
 逆に心配されてしまった。余程困った顔をしていたらしい。そういう訳ではない、と言ったところで、台所の方から何やら派手に沸騰する音が聞こえて来た。
 「やっべー」
 幽助は渡りに船とばかりに、蔵馬を放って台所に向かった。火を弱めて、落ち着いてからカレールーを入れる。溶けたのを確認してから醤油を少々。後は弱火でコトコト煮込めばいい。御飯はとっくに保温になっている。
 幽助はそおっと隣の部屋の蔵馬を覗き見た。幸い目が合う事もなく、蔵馬は相変わらずテレビを見ている。だけどその視点は全く別のところにあるようだった。遠くから見ると、その表情は殊更寂しげに見えた。ふいにため息をついて窓の外に目をやる。その繰り返し。
 幽助はカレーが鍋に焦げ付かないように時折かけ混ぜながら、蔵馬の様子を観察していた。
 時計は9時20分を指している。蔵馬はドラマが終わったにも関わらず、チャンネルはそのままにひたすらボーっとしている。幽助も先ほどと同じく、蔵馬の様子を伺っている。
 確かに、蔵馬はいつもと違う。だけど様子を見ている内に、幽助の中から最初の頃に感じた不安とか心配とか、そういうものは薄れていっていた。表情も仕種も、いつもの彼からは想像もつかないのだが、その彼らしからぬ様子がなんとも奇妙で、可愛いとさえ思うようになっていたのだ。ただでさえ年上の、しかも齢千年ともいう古狐を捕まえてこんなことを言うのも何だが、今の蔵馬は見ていて「心配」を通り越して面白かった。
 彼をそうさせたのが何なのか、気にならないと言えばそれは嘘になる。彼に何が起こったのか、知りたいという気持ちは消えてはいない。むしろ、強くなっている。けれど、今自分がこんな風に感じているのは、それが決して誰かの命に関わるような、そういう深刻な事態ではないからなのだろう。もしもそうであれば不安は増大するはずだし、そうなったら力づくでも聞き出している。例えそれで蔵馬が怪我をしようがどうしようが、だ。そういう気にならないのは、決して自分が鈍感だからという訳ではないだろう。
 実際、今の自分は妙に楽しくて、いっその事このままずっと見ていたいような気さえする。
 初めて蔵馬の異変を見た時から、前にも誰かがこんな風にしていたような気がしていた。それが誰だったか、どういう時だったか未だに思い出せないのだが、それも何だかどうでもいいと思う。

 …ま、いっかぁ……。

 それが幽助の、最後の最後に出した結論だった。





 腹ごしらえも終わり、一服する頃には十時を過ぎていた。屋台の仕事はとっくに投げていた。二人は特に何をする訳でもなく、付けっぱなしのテレビを見たり寝っ転がったり、最近あったこと等を話したりして、実に淡々とありきたりに過ごしていた。
 夜のニュースも終わり、そろそろ日付が変わろうとしていたが、蔵馬はそれでも帰る素振りを見せなかった。幽助は幽助で完全に高見の見物を決め込んでいるので、時間の事にも何も触れず、ただ、今この時を楽しんでいた。
 時計が十二時を告げる。もうこんな時間か、と言ったのは蔵馬。気にするな、と返す幽助。今はテレビも消えている。時計の鐘の余韻が夜の静けさに染み入る。


 「…何か、言いたいんじゃないですか?」
 切り出して来たのは蔵馬だった。
 突然の展開に幽助は何も言えず、ただ蔵馬と向き合っていた。蔵馬はずっと幽助の様子に気付いていた。気付かない訳がない。あれだけの動揺を蔵馬が見落すはずはない。
 そんな事は分かっていた。それでも、全部お見通しでいて素知らぬ顔をしていた彼に「やっぱこいつ性格悪ぃ…」と、心の中で毒づいていた。自分も同じ事をしていたのだが、そんなものはとっくに神棚の上である。
 「幽助」
 うつむいたままの幽助を、蔵馬はちょっと困ったような笑顔で見ていた。幽助は大きく息をついてから、蔵馬の方に顔を向けた。
 「正直言って、山ほどある」
 「……」
 「でも、いい」
 「?」
 蔵馬は一瞬目を丸くした。幽助は更に続ける。
 「最初はとにかく気になって、何がなんでも聞き出してやりてえと思った。でも…」
 「でも…?」
 「もし何か魔界がらみの揉め事だったとしてもお前は自力で解決しようとするだろうし、それが出来る。一人でどうしようもなくなったらその時はお前から言ってくるだろう?」
 「どうだろうね。例え俺の手に負えなくても、俺は何も言わないかもしれないよ」
 「本当にそういうつもりだったら、多分俺何も気が付かねえと思う。俺に気付かれるような半端な隠し方しねえだろ」
 「………」
 「確かに、今日のお前は何か変だってずっと思ってた。でもそれは、こう、やばい雰囲気とは違ったからさ」
 蔵馬は黙って幽助の言葉を聞いている。
 「だから、気になるけどいいんだ。言いたくなったら言えばいいし、言いたくなかったらそれでもいい」
 「………」
 「やっぱ……さ、俺、お前の事信じてるから」
 それだけ言ってなんだか急に照れくさくなり、煙草をくわえる。火をつけようとするが、ライターが見当たらない。と、蔵馬が自分のライターを差し出した。
 「ああ、サンキュ」
 しかし、火をつけたはいいが今度はガラにもなく思いっきりむせてしまった。大丈夫かと聞いて来る蔵馬に手を振って応える。ようやく落ち着いたところで、蔵馬が口を開いた。
 「月に二度位…かな、家族で外食しているんですよ」
 「は?」
 「ほら、俺、一人暮らししているでしょう。別に俺はそれが当たり前だって思ってたからいいんですけど、親達がそう思ってくれなくて。やっぱり時々は家族で集まった方がいいってね。お互いやもめ生活長かったから、そういう願望あるんだろうね」
 …成る程。買い物帰りに見た親子連れは錯覚ではなかったのだ。そう納得しているところで、更に続く。
 「俺は母さんが結婚して、本当に良かったと思っている。義父は温厚だけど信念を持っていてね、彼が相手で本当に良かった。これで俺も肩の荷が降りたっていうのかな、安心したんだ………」
 そこまで言うと、蔵馬はふっと目線の方にやった。
 「安心したんだよ。…だけど……何ていうのかなあ…」
 蔵馬の口調が少し変わった。
 「家族みんなでいると、何だか少しだけ腹が立つっていうか……」
 いつもの年長者らしい落ち着いたものではなく、本当に同年代の青年、といった風だ。
 「なんか…さ、ずっと自分が守らなきゃって思っていたのが急にその必要がなくなって、安心した反面物足りなくて」
 幽助は目を見張った。ずっと引っかかっていたものが次第にはっきりと形になっていく。
 「もう、俺がする事はないんだなーって……そう思ったら妙にくやしいんだよ」
 …もしかして……
 今日、繰り返し見せたあの表情。怒っているような、でも少し寂しそうな…。どこかで見たようなあの表情を、幽助は今、はっきりと思い出した。
 酒臭いから近寄るなと追い払った時の母親。
 自分が霊界探偵であることを知った時の蛍子。
 飛影の妹を自分だけが知らないとわめきちらす桑原。


 …拗ねてん……のか?


 そうだ。蔵馬は拗ねているのだ。自分を女手一つで育ててくれた母親を、突然現れた全くの他人に取られて。母親の隣にいるのが自分ではなくなって。彼女が自分以外の誰かの側で微笑むのを見て。
 おそらく蔵馬は、今日の家族団らんを急用が出来たとか何とかで欠席、もしくは途中で抜け出して来たのだろう。そして特に用もなく、かといってアパートに一人で戻る気にもなれずにいた時、たまたまこのマンションが目に入ったかでふらっと立ち寄ったのだろう。自分でも掴み切れないもやもやを、誰かと一緒にいる事で紛らわせるために。
 蔵馬とその母志保利は親子ではあるが、蔵馬の中では未だに実感が薄い。十数年前、霊界のハンターに追われ殺されかけた盗賊妖怪の蔵馬が最後の手段として選んだ道が、人間の胎児に憑依し妖怪としての力が戻るまで人間として生活する事だった。志保利の中に芽生えた命はまだ胎児にもならない受精卵で、この上なく好都合だった。
 ただそれだけだった。
 しかし、何も知らない彼女が自分を本当の息子として無償の愛を注いでくれた事にいつしか罪悪感を覚えるようになったと、以前蔵馬本人から聞いた。病に伏した彼女を助けようと自らの命を投げ出そうとしたのは、本当についこの間のことなのだ。そんな彼の、母親に対する想いがどれ程のものなのかは、どんなに想像しても追い付けない位なのだろう。
 誰よりも彼女を大切に想っていた。誰よりも幸せにしたかった。だけど、それを叶えられるのは結局自分ではなかったのだ。

 そうか。こいつ、拗ねてんのかあ。

 それに気付いた時、幽助は既に吹き出していた。蔵馬は一瞬何がどうしたのか分からず、そしてすぐ自分が笑われている事に気付き益々不機嫌そうな顔をした。それがまた可笑しくて、幽助は腹を抱えて笑い転げた。
 そうか、そうだ。そうだったのか。
 いかなる時も冷静沈着で、その感情を表に出す事のない蔵馬。
 誰よりもずる賢く、氷の心を持つと言われた盗賊妖怪。
 そんな彼がたったこれだけの事で、育ての親の再婚というそれだけの事で、こうまでも心を乱すものなのか。
 視界の端に映る蔵馬は、怒りを通り越してあきれているようだった。もう勝手にしろ、と、またそっぽを向く。その姿が妖狐とダブったものだから、いい加減苦しくなって来たというのにどうしても笑いを止められなかった。
 多くの妖怪たちから恐れられ、伝説にさえなった妖狐蔵馬が、なす術もなくふてくされている様は殊更可笑しく、可愛かった。そんな事口にしようものならそれこそ自分の命が危ないので言わないが、その時の蔵馬は本当に可愛くて、出来ることなら思い切り頭を撫で回してやりたい衝動を必死で押さえていた。
 そんな幽助を蔵馬は横目で見ながら、いっそのことシマネキ草でも植え付けてやろうか、とか真剣に考えていたに違いない。
 逃げ出したくなる位恐い目で睨む蔵馬を前に、それでも幽助はその場を動けず、ただ込み上げて来る笑いと苦痛に耐えるしかなかった。





 浦飯家を訪れる客は少なくない。面倒な事ばかり持ち込む者や、幸福を運ぶ者など、実に様々だ。
 そんな中でもこの日の客は格別だった。おそらく今夜の出来事は、幽助にとってあらゆる意味で生涯忘れられないものになるだろう。
 幽助はこの事件の真相を決して口外すまいと心に決めた。それは目の前で必死に怒りを押さえようとしている狐のプライドをこれ以上傷付けるのは忍びないという思いからであったが、いつも自分を軽くあしらって本音を見せようとしない彼への、そしてまだ誰も見た事のないであろう彼を知ったという、ちょっとした優越感のためでもあった。
 とりあえず、と、幽助は苦しさをおさえながら、どうやって彼をなだめようかと模索していた。このままでは本当に殺されるかもしれない。彼から発せられる殺気がそれを物語っている。自分もこんな間抜けな死に方はしたくない。
 だけど ────    
 こんな気持ちのまま成仏出来るのなら、それも悪くはないかもしれない。
 そんな事を考える程、今の幽助は満ち足りていた。































 午前二時を過ぎた頃、蔵馬は幽助のマンションを後にした。幽助は泊まっていけと言ったのだが、今はどうにも一人になりたかった。
 車の通りもほとんどなく、ライトの代わりに野良猫たちの光が時折横切る。蔵馬は車道の真ん中を歩いていた。その足取りは妙に軽い。
 幽助にこれでもかという位に笑われて、腹が立たなかったと言えば嘘だ。一時は真剣に殺意を抱いてしまった。確かに彼の気持ちも分かるが、何もあそこまで笑わなくてもいいではないか。しかし、そんな思いも彼の一言で一瞬の内に消えてしまった。


 「でもよぉ、それはそれでいいんじゃねーの?」
 それに対して「何が」と聞くと、彼はこう続けた。
 「だってよ、そんなの誰だってそーだぜ。自分の母親が突然赤の他人の物になるんだからな」


 その後、俺だったらそいつを一発殴った後のし付けてくれてやるけどな、と付け加えて。


 自分を愛し、育ててくれた母親に、幸せになって欲しいという想いは本物だった。大恋愛の末結ばれた夫に先立たれ、たった一人で頑張っている姿は健気で、だから何がなんでも彼女の支えにならなければと思っていた。彼女を心から愛する男性が再び現れるまで。
 そして、その日がやって来て、本当に嬉しかったのだ。偶然にも自分の人間名と同じ「秀一」という義弟も出来た。これで本当に彼女の望む幸せな家庭が手に入るのだ。
 けれどそんな気持ちとは裏腹に、素直に祝福出来ない自分がいる事に気付いた。義父に寄り添う母を見ると、無性に苛立つ事があった。
 どうして自分は彼女の幸せを100%喜ぶ事ができないのだろう…? 母親の幸せを共に分かち合うのが息子である自分の務めではないのか。それなのに何故こうも落着かないのだろう。
 もしかしたらそれは自分が本当の息子ではないからなのかもしれない。本当の息子や娘だったら、母の幸せを素直に受け入れられるのだろうか。少なくとも、義弟である秀一はそうだった。彼は父親の結婚を心の底から祝福していたし、父親が自分の母と並んでいるところを嬉しそうに眺めている。それは明らかに自分とは違う。結局、これが自分の限界なんだろうか…。
 そんな思いが月に数回の団らんを重いものに変えていった。これではいけないと思っていても、どうしても消す事の出来ない感情。仕事場が義父の会社であるから尚更だ。毎日のように顔を合わせているのだから。決して彼を憎んでいる訳ではないし、実際人望の厚い彼だからこそ母を委ねる事が出来たというのに。


 …これじゃあまるで、自分の女を横取りされて尚も未練を捨てられない男のようではないか。
 確かに自分は彼女を愛しているが、それとこれとは違うはずだ。第一、今の自分には彼女とは違う、けれど何よりも大切な存在がいる。「南野秀一」という役割をほとんど終えた今でも人間界に残っているのは彼がそれを選んだからだ。でなければ、とうの昔に皆の記憶を消し、魔界に戻っているだろう。
 ならば、この感情は一体どういう事なのだろう…?


 幽助があの言葉をどういうつもりで言ったのかは分からない。考えに考えた末なのか、それとも何の気なしに出て来たものなのか。分からないが、それは蔵馬にとって全くの予定外の事だった。持ってはならないはずの感情を捨てられないのは自分が妖怪であるが故のものなのかと、一年近くも悩んでいた自分は一体何だったのだろう。
 いつもそうだ。自分が千年もの歳月を経て築いてきた価値観とかいうものを、たった十数年生きただけの彼はいとも簡単に崩してしまう。何もかも壊されて残った瓦礫の中で呆然と立ち尽くす事しか出来ない。
 けれど、そこに吹く風の何と心地好いことか。
 何もかもなくした筈なのに、全てを得たような気分になる。そんな時、もしかしたら自分の千年など彼の一年にも満たないのかもしれないと思う。
 そんな事を考えていると幽助は咳払いをして、だから別に気にすんな、と言った。その後また笑いが込み上げて来たらしいが、それを不快だとは思わなくなっていた。気が付くと、自分もつられて笑っていた。何もかもがどうでも良くって、近所迷惑も顧みず二人して声を上げて笑い続けた。





 アパートを目前にして、蔵馬はふと立ち止まった。しばらく考え込んだ後、くっと顔を上げて軽く地を蹴る。
 彼の体は軽々と宙を舞い、数件先の民家の屋根に降り立った。その姿は先程までとは違う、銀の光に包まれていた。
 空を仰ぐと、大きな月が目に入った。満月には少し遠い、13・5といったところか。それでもあたりを照らすには十分だった。
 遠くに家族の住む家が見えた。月明かりを浴びたそれは一層幸福感を漂わせている。
 明日、仕事帰りに義父を誘って食事でもしてみよう。その後はごく平凡なサラリーマンらしく、飲み屋をはしごしながら彼を酔わせて二人のなれ初めなど洗いざらい吐かせてみるか。当然金は払わせてやろう。自分が愛した女の息子のすることだ。悪い気はすまい。
 蔵馬はその時を想像して、一人悦に入っていた。





 夜の風が彼の長い髪をなびかせた。
 今宵はとにかく気分がいい。このまま眠るのは実に惜しい。こういう時は秘蔵の酒を片手に月見酒としゃれこもうか。一人で飲んだ事を知ったら幽助は怒るだろうが、あれだけ笑った罰だ。かまうもんか。



 もう一度風が吹いた時、そこに蔵馬の姿はなかった。


END


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